昭和五十七年七月十日 朝の御理解
御理解 第三十二節
「女が菜園に出て菜を抜く時に地を拝んで抜くといふやうな心に なればおかげがある又それを煮て食べる時神様頂きますと言う やうな心あらばあたる事なし」
昨日、昨夜ですが、あの、皆さんもご覧になったかも知れませんが、水資源の事について、ある学者の方がお話をしとられました。やっぱりこの水も、段々少なくなっていくそうですね。それがずうっと統計に表れておる、数字を示しながら、お話ししとられました。
それこそ水という、今、どこも水不足で時間で制限をしておる、まあ状態でありますが、それこそ、も、無茶苦茶に使う事を湯水のように使うと言いますよね。お金を、ま、放蕩して使う人なんかを、お金を湯水のように使う。ところが、実際は、その、湯水のように使えないように段々なってくるんだ、と。
水も大変貴重な事になって来て、段々、年々歳々水の量が減っていくという話でした。私は今朝方から、も、長いお夢を頂きました。しかも大変意味が深そうな感じですけれども、ようくまとめられておるんですけれども、丁度、夜お広前終わって、私、今はもう全然夜出て参りませんけれども、お広前終わって電気を消して、そして自分の部屋に行くんですけれども、裏の方に、も、煌煌と電気がついてるんです。だからまいりましたら、そこは、も、とてもとても広い広い、とてつもない広い、工場のように広いそこに、沢山な様々な機械があって電気がついておりますから、私はそれを、どこのどのスイッチを押したら消えるだろうか、と思って一生懸命その、捜すけれどもわからない。そしたら、そこに、ま、もう五十、六十位なられる二人のお爺さんが、こ、人格をもった人の感じの日本人のお爺さんと、米国人のお爺さんとが二人おられる。そして、この電気は消してはいけないのです、とこう言われる。
いつどこで、どういう事故が起こるやら、あるやらわかりませんから、機械のどれが止まってもすぐ、その、ま、修理が出来るように、ま、その、お爺さん達二人が、ま、番をしておられるという、だから、この電気は消してはならない、というお夢でした。
米国の人、日本の人という所に、こ、大変意味があろうと、こう思ったんですけれども、世界の、ま、人類の危機というような事が、ま、最近言われた言葉ぢゃないけれども、段々それが深刻化してまいりました。その機械というのが、地球上、世界中の様々なこの難儀が突発した時に、そこに電気がパアとついて、その機械をひねれば、それがこう直っていく、というような感じの機械なんです、ね。はあ、この人達がこのようにして守っておってくださるならば、これは、電気はどれだけ百万燭光をつけてもいいなあ、と、お夢の中で思っておるところでした。
御承知のように、電気というのは、その、やはり元は水源によるのですね。水の力によって、あの電気が、一すくいの水でも今は大切にしなければならない。これは、断水なんかのところではそうですよね。日頃は、それをもう、それこそ使いぱなしで、湯水のように使って来たけれども、ね、湯水のように使えなくなってきた、ね。かと言うて、これが世界の難儀、総人類の難儀の為に使わしてもらうのなら、これはもう、どれだけの電気を使っても、昼夜もつけっぱなしで、その、機械の様子が一目でわかるように、明るくしておかなければならない。いうならば、ね、お道に信心をさしてもらえば、たとえ水がどんなに豊富にある時でも、それこそ一すくいの水にでも感謝を込めて、それこそ頂きますという心で、頂かなければならない、ね。かと言うて、また、必要な時には、ね、それを、も、百万燭光の電気をおこす程しの水をつかわなければならない時もある。
も、昔、地真水心と頂いた事がある。地の真、水の心ね。真、真と言うが、真とは、いうならば、地の心そのものが真である。それをここでは黙って治める、土の心でというふうに申します。
これは、もう、いよいよ本当な事なんです。しかも、それを有難く黙って受ける、という事が真の信心なんです。
こんな理不尽な事は、こんな損な事になる事と思うことでも、実はそれは真の現れです。ですから、それを土の心で黙って受ける。いわゆる、地の真である、地真。水心とは水の心である。
一すくいの水でも大切にしなければならない。けれども必要な時には、また、それこそ億万燭光の電気を使う、いうなら、そういう水源になるところの水も、また、使わなければならない、ね。
けれどもそれが、地の真、水の心で行使される時、ね、素晴らしい働きが、そこから起こってくる。
昨日の、学者の人は水にも、いうならば、地球上の様々な資源ね、石油なんかも段々、何年、何十年後にはなくなると言われるが、水もやっぱりそうだ、と言うのですよ。統計上ずうっと表れて来ておる、水不足という事がね、という事であった、も、一すくいの水でもおし頂く心、ね。ここは、とい所では、いうならば、どれだけの水でも、使わせていただけるようなおかげを頂く為に、例えば、世界の難儀、ね。それこそ、世界の危機と言われる時でも、間一髪、大きな電気がついておって、それを直すだけの機械というか力が、そこにあるものが、スイッチ一つでとどまられるというね、というようなおくり合わせを頂いて、そこに、私がお夢の中に頂いた、沢山の機械が、ね、狂う事なく、止まる事なく、どこにどういう難儀がおこっても、間一髪それを止めるだけの働き。いわゆる、世界総氏子身の上安全とのおかげを頂く為に、そういう働きがおこる程しの信心を、私は地真、水心というふうに思うです。
地の真、いわゆる、この信心に徹底していく事、ね。いよいよ水心、水心、ね。水は器に従うと言われております。丸い器に入れば丸くなり、四角い器に入れば四角なり、いかにも弱々しそうにあって、それが積もりに積もり貯って大きな水の力。いわゆる、電気をおこす程しの力にもなるのが、水の力です。為には、その水の心、地の心あいまって、これが出来ていくような信心をさせて頂く人が、ね、いうなら、合楽で皆さん、信心の稽古をなさっておられる、いうなら、御理念に基づく行き方の出来る人達が、ね、合楽教会で終わった時には、も、電気を消してしまって、ね、一燭光の電気でも無駄にはしないという行き方、裏に行ってみたら、もう世界中がここの機械一つ一つで助かっているんだ、というような機械が動いておる。だから、例えば、どこに故障、狂いがあても、ね、百万燭光の電気が、いっぱい点いておりますから、ね。そこに、米国の人、日本のお爺さん達二人がおって、すぐ直して下さるような働き。それは、まあだ意味が、まだ、いろいろある事だと思いますけれどもね。いう働き、間一髪、ね。というような、いろいろな人間の世界を一瞬のまに破滅に落とし入れるような働きがそこに起こったといたしましても、それをスイッチ一つでおしとどめるような働きが出来る為に、私共、信心させて頂く者はね、いわゆる、世界総氏子身の上安全世界真の平和といったような、ま、簡単な言葉ですけれども、その内容というものは、そういう働きが起こってくるような、その働きが起こってくるような信心とは、私は御理念にたよる他はない。その御理念の芯というならば、なら、今日皆さんに言っとりますように、地真水心のような信心が出来るような人達、ね、神様、頂きますという心、ね。天地を拝んで抜くような心、ね。頂きますという心、どういう心で頂くかというと、ね、地の心、水の心で受けていくというような信心。そういう信心者の力が集まって、いわゆる、その大きな機械、も、どれだけあるかわからない大きな機械が、ね、間違いなく、この、ま、働きをなす事ができる。
昨日、一昨日は珍しいお供えがあった。ある方が、食堂へ行って、今日は三人、人を殺すと言って、こんな長い包丁ば持ってきとるそうですもん。それで、そこのお上さんびっくりしてから、ま、なだめすかして酒を飲ませたりなんかして、そりゃ神様にお供えするけんやんなさい、ち言うて、それは無理に取って、お供えされました。昨日はその人が、本当にあん時に、神様にお供えしてもらってよかった、と、も、おかげで助かったと言うて、お酒を一本その人が託けたと言うて、お供えを持ってきた、ね。二、三日前でしたかね、あれは、創価学会のお寺だそうですね、あの、この頃、人殺しがあった、武雄で佐賀、何人か殺された。それがやっぱり、何か、薬を常習しておる人達が、こう、何か、ね、錯乱状態になってそういう事になってくるんです。
何か、お寺の、あの場合は何か、おかげ頂かぢゃったけん、も、腹かいてから、というごたるふうな事でしたね。
例えば、本当にそういうような悲劇が、起こる起こらないの一瞬、ところでです、御神縁を頂いてる事によって、その、包丁が合楽教会にお供えになった。あとで判った事は、もしあれを、お婆さんが受け取ってくれていなかったら、ね、本当に自分は三人殺したかも知れない。おかげでそういう悲劇をおこさんで済んだと言うて、あの、段々気がついてわかって、いわゆる、お酒一本のお供えという事になったわけなんですけれども、もう、そこに幸、不幸の間一髪でしょうが。これは、だから小さい、そりゃ小さいことですけれども、これが世界中の難儀というふうに頂いてもいいわけですよね。どこにどういう、その、間違いがおこってです、ね、世界を破滅におとし入れるような働きが、そこに起ころうとしておっても、間一髪、それを私が預かりますというような働きが、起こってくるようなおかげを頂く為に、私共は、ただ自分の我情我欲を満たす為の信心、自分の小さな願いが成就する事の為の信心から、脱皮して、ま、今日の御理解でいうならば、野菜をね、女が菜園に出て、ね、野菜を抜く時に天地を拝む心、また、それを煮て食する時に、神様頂きますという心あらば当たることなし、というところを今日は、私は、地真水心というふうにして聞いて頂いた。
いよいよ、地の信心とは、ね、いうならば、有難く黙って受けるという信心。それこそが真であり地の真である。どんな場合であっても、ね、素直というか、ね、逆らわないというか、水の心、四角、器に従う心、そいう心をいよいよよ育てていく人達が、世界真の平和を願い、ね、世界に和賀心時代を、と願われるなら、私はね、丁度、合楽の教会に、そういう、とてつもない世界を動かす程しの、大きな機械が設備されておる、その設備されておる機械が、ね、いざという時に、いわば、活動出来れるだけの働きがあっておる、ね。そういう働きがおこせる程しの信心を頂きたい、ね。
地真水心、ね、地の真である。お互い真の信心、真の信心と言うが、ね、地の信心、土の信心に徹底するという事は、もう、すでに真の信心をしておる事になるのです。
素直に素直に馬鹿ほどに、ね。丸い器に入れば、いやあ私は四角いと言わずに、ね、丸い器に入れば丸く、四角い器に入れば四角、ね。それこそ、明治天皇の御製ぢゃないですけれども、ね、器に従う水の、むたな ほしきは 水の心、か何かというようなお詠がございましたよね。私共がです、むたな ほしき、それこそ水の心であり地の心である。地真水心の信心をいよいよ、ね、天地を拝んで、例えば野菜を、これは野菜だけに限ったこっちゃないです、天地を拝むような心、それを煮て食する時に、神様、どんな場合であっても頂きますとうような心。そういう、私はおかげを頂く時に、確かに、その学者な方が言われるように、年々歳々、地球上から水が少なくなっていくというような事実があってもです、それを、ま、それをいうなら、うるおっていけれる、また、おかげにも展開していけれるようなおかげを頂きたい。
皆さんが、日夜願っておられる、ね、それは、世界総氏子身の上安全世界真の平和でしょう。世界万国津々浦々に、和賀心時代をでしょう、ね。和賀心時代を、十三日会を、放生会をでしょう。そういう願いの内容としてです、充実した祈りになる為に、どうしても地真水心が自分の血肉にならなければならない、という事であります。 「 どうぞ 」